東京高等裁判所 昭和47年(行ケ)80号 判決
一 原告主張の請求原因事実のうち、特許庁における手続の経緯、本願発明の特許請求の範囲および本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いがない。そこで、原告主張の取消事由の有無について検討する。
二 第一引用例にPTBCを空気の存在下でスチレンの重合防止に用いることを試みた事実が記載されていることは、原告も自らこれを認めるところである。そして、成立に争いない甲第三号証の一によれば、第一引用例には、スチレン単量体の洗滌、貯蔵または輸送中に重合を防止するため適当な重合禁止剤を加えることが望ましいとされ、効果的な重合禁止剤としてPTBCがあげられ、その事実を証明するに足りる実験結果が記載されているが、その一つとして表六―三では、貯蔵所でのスチレン単量体の安定度の実験として、スチレン単量体にPTBCを添加し、二五日間にわたり、二五度Cの窒素存在下で貯蔵した場合と、二五度Cの空気存在下で貯蔵した場合の重合物およびアルデヒド生成の状態が記載されていることが認められる。以上の記載によれば、第一引用例にはスチレン単量体の貯蔵において重合物およびアルデヒド類の生成を抑制する目的で、その技術手段として二五度Cの窒素下および空気下でスチレン単量体中にPTBCを添加し、その結果、スチレン単量体中に生じた重合物の量は、PTBCを添加しない場合に比較して減少するなどの効果がある旨記載されているということができる。したがつて、第一引用例には原告主張のような単なる事実の記載があるにすぎないものではなく、前に述べたとおりの目的、構成および効果の記載によつて、スチレン単量体の貯蔵に関する技術思想の創作が表明されているものと解して妨げなく、特許法第二条第一項にいう発明が記載されているといつてよい。
三 そこで、補正にかかる本願発明と第一引用例に開示された発明とを対比してみる。
まず、本願発明の目的がスチレン単量体の自然重合を防止するにあることは、当事者間に争いのないその特許請求の範囲の記載に照らして明らかであり、他方、第一引用例の目的もこれと同一であることは、前記認定のとおりである。つぎに、本願発明の構成の一つである「〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)」のうちに空気が包含されることは、原告も認めて争わないところであるから、本願発明と第一引用例とはスチレン単量体にPTBCを添加するとともに空気を存在させる点において、その技術手段に相違はないことが明らかである。したがつて、両者は、その技術手段において相違がない以上、その作用効果においても相違が生じないということができる。なる程、前記甲第二号証によれば、本願発明の作用効果の一つとしてスチレン単量体の自然重合をきわめて有効に防止することができる旨の記載があり、その実施例四には、本願発明の方法によつてスチレン単量体を二〇度Cの温度で貯蔵した場合には二箇月たつて二PPm(重量)以下の重合物しか生成しなかつた旨の記載があることを認めることができる。他方、前記甲第三号証の一によれば、第一引用例においては、その記載の本願発明と同一の方法によれば、二五度Cの温度で二五日たつて〇・二(この単位がPPm単位であるか、重量%であるかは明らかでない。)の重合物が生成された旨の記載がある事実を認めることができる。しかし、この両者は明らかに温度条件を異にする実験に基づくものであり、他のすべての条件が同一のもとに行われた実験結果に基づくものであると解することは到底できないから、両者の記載された効果の相違をもつて本願発明と第一引用例との間に効果の相違があるものということはできない。
してみれば、補正にかかる本願発明と第一引用例に記載された発明とは同一の発明と認めるべきであるから、本件審決が補正後の本願発明が第一引用例に記載されたものであつて特許法第二九条第一項第三号に該当するものとした判断は正当である。
四 よつて、進んで本願発明と第二および第三引用例記載の発明との異同について検討する。
原告は、本願発明は温度条件が常温(二〇度C)であることを要件とする旨主張する。しかし、当事者間に争いのない本願発明の特許請求の範囲の記載によれば、本願発明は常温下でなされることを要する旨の記載はなく、また、前記甲第二号証によれば、本願特許公報の発明の詳細な説明の項においても「本発明者等の研究によつて、酸素はスチレンおよびその同族単量体の温度が五〇度C以下の場合にはラジカルの捕捉剤として働き、その重合防止作用は極めて強力であつて、……」との記載があることが認められ、本願発明が常温でなければならないことをうかがうに足りる記載はない。のみならず、本願発明の実施態様として示されている実施例二では、常温以上の温度である五〇度Cの場合について言及されているから、これらの記載を総合考察すれば、本願発明が常温であることを要件とするものと解することはできない。
そして、第二および第三引用例には、スチレンの重合防止剤としてP―ベンゾキノンを空気の存在下で使用した事実が記載されていることは当事者間に争いがない。また、P―ベンゾキノンが本願発明で用いる「酸化防止性重合禁止剤」に当り、空気が本願発明にいう「〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)」に当る事実は、原告の自認するところである。したがつて、本願発明と第二および第三引用例記載の発明とは、その技術手段を同じくし、発明の構成を同じくするものと考えられる。原告は、本願発明と第二および第三引用例記載の発明とでは、発明の目的および作用効果を異にする旨主張する。しかし、発明の目的は発明者の主観的意図にとどまるものであり、その作用効果も明細書に記載されたものは発明者の主観的な認識にすぎないから、発明の目的または明細書記載の作用効果を基準として、発明の同一性の有無を決することは相当でない。
それ故、本願発明が第二および第三引用例記載の発明とその構成を同一にする以上、本願発明は、第二および第三引用例に記載されているものと認めるのが相当である。
五 以上のとおり、本件審決には原告主張のような違法はなく、本件審決の取消を求める原告の本訴請求は失当であるから棄却する。
〔編註〕 本件における請求原因は左のとおりである。
一 特許庁における手続の経緯
原告は、「スチレンおよびその同族体の貯蔵あるいは輸送中における自然重合を防止あるいは停止する方法」の発明(以下「本願発明」という。)に関し、昭和三七年七月二三日特許出願(同年特許願第三〇二一九号)したところ、昭和四〇年一二月一三日付で特許出願公告(同年第二八一八三号)がなされた。ところが、旭ダウ株式会社ほか三名よりそれぞれ特許異議の申立がなされ、これに対して原告は、昭和四一年八月二九日付で手続補正書を提出したが、昭和四三年四月一六日前記手続補正を却下すべき旨の決定がなされるとともに、同日付をもつて本件出願を拒絶する旨の査定がなされた。そこで、原告は、昭和四三年六月一〇日前記拒絶査定に対する不服の審判を請求した(昭和四三年審判第四四八三号)。特許庁は、これに対し昭和四七年三月三一日「本件審判の請求は成り立たない。」旨の審決をし、その謄本は、同年六月五日原告に送達された。
二 本願発明の特許請求の範囲
スチレンおよびその同族体単量体の貯蔵または輸送にあたり、該単量体に酸化防止性重合禁止剤を添加するとともに、〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)でシールするかあるいは上記ガスを吹込むことにより、単量体とガスを充分接触させることを特徴とするスチレンおよびその同族体の自然重合を防止または停止する方法
三 本件審決理由の要点
本願発明の要旨は、前項掲記の特許請求の範囲のとおりである。ところで、高分子化学第七巻第一三二頁から一四一項まで(以下「第二引用例」という。)および米国化学会第一一一回大会講演要旨集第一二M頁(以下「第三引用例」という。)には、スチレンの重合防止剤としてP―ベンゾキノンを空気の存在下で使用した事実が記載されている。そして、P―ベンゾキノンおよび空気が本願発明で用いる「酸化防止性重合禁止剤」および「〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)」に相当することは明らかであるから、本願発明は、上記両刊行物に記載されたものである。したがつて、本願発明は、特許法第二九条第一項第三号に該当し、特許を受けることができない。
つぎに、昭和四一年八月二九日付でした手続補正に対する補正却下の決定の適否について検討する。この手続補正は、本願発明で用いる「酸化防止性重合禁止剤」を「P―第三ブチルカテコール」に限定しようとするものであるが、「スチレン―イツツ・ポリマーズ、コポリマーズ・アンド・デリバテイブズ」(ラインホルド社一九五二年)第二〇五ページ(以下「第一引用例」という。)には、P―第三ブチルカテコールを空気の存在下でスチレンの重合防止に用いることを試みた事実が記載されている。そして、空気が「〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)」に相当することは明らかである。してみれば、前記手続補正後の明細書特許請求の範囲に記載されている発明は、第一引用例に記載されたものというほかないから、特許法第二九条第一項第三号に該当し、本件出願の際独立して特許を受けることができないものと認める。
四 本件審決を取消すべき事由
(一) 本件審決の理由のうち、第一から第三までの各引用例の記載内容、手続補正の内容およびP―ベンゾキノンが本願発明で用いる「酸化防止性重合禁止剤」に当り、空気が本願発明にいう「〇・二~二五重量%の酸素を含有する不活性ガス(単量体に対し)」に相当する旨の審決の認定は争わない。しかし、本件審決には以下に述べる如き違法事由があつて、取消を免れない。
(二) 第一引用例の記載は、P―第三ブチルカテコール(以下「PTBC」という。)のスチレン単量体に対する重合禁止の効果は、空気下でも窒素下と大差ないという事実を示すのみであつて、何ら発明を開示したものではない。かりに、何らかの発明を開示したものであるとしても、その目的、効果において本願の発明とは同一ではない。ところが、審決は補正にかかる本願発明が第一引用例記載の発明と同一であるとして本件出願の補正を却下し、その結果、本願発明の要旨の認定を誤つたものであつて違法である。
原告が、昭和四一年八月二九日付手続補正書によつて補正しようとする本願発明は、PTBCと特定量の酸素を含有する不活性ガスとを意識的、積極的に共存させ、その共働作用を発揮させようとするものである。すなわち、本願発明は、従来から重合禁止剤として広くその効果が認められているPTBCがあるにもかかわらず、スチレン単量体が貯蔵中あるいは輸送中に自然重合するのを前記不活性ガスの共存によつて防止または停止することを目的とするものである。その目的を達成するため、従来自然重合を促進するものとして貯蔵あるいは輸送などの取扱いにおいて、極力その接触を排除されてきた酸素を積極的に共存させることにより、自然重合の異常発生を未然に防止し、あるいは自然重合の発生初期において本願発明を適用することにより、その自然重合の進行を効果的に停止するというきわめてすぐれた効果を有する。
これに対して、第一引用例の第六―三表には、貯蔵時におけるスチレン単量体の安定性についての測定値が示されている。しかし、同表(a)、(b)の記載が示すところは、要するに、PTBCの添加がスチレン単量体の貯蔵に際し、重合物およびアルデヒド類の生成を抑制するのに効果があり、かつ、この効果は窒素下においても、空気下においても共に二〇日程度持続することを明らかにしているものである。すなわち、PTBCの効果は空気の存在下でも影響を受けないとの事実を示したにすぎず、PTBCと酸素との共存が、輸送中の振動、攪拌によりまたは長期の貯蔵中に発生するスチレン単量体の突発的な自然重合の予防または停止に対して卓効のあることについては何らの認識もない。してみれば、第一引用例の記載には発明における創作的要素たる目的の斬新性、その目的の達成のための手段の認識、あるいはその手段のもたらす効果の顕著性についてはいずれも何らの記載もなく、したがつて、特許法第二条第一項に定義される発明が記載されているということはできない。
またかりに、何らかの発明を開示したものであるとしても、第一引用例に開示されたものは、その目的、効果において、前記のとおりスチレン単量体の貯蔵に際しPTBCの添加が重合物およびアルデヒド類の生成を抑制することを示すにすぎず、本願発明とその目的、効果において同一ではない。したがつて、補正にかかる本願発明は、第一引用例のものとは同一の発明ではない。
(三) かりに、補正が許されない場合にあたるとしても、本願発明は、第二、第三引用例に記載された発明とはその目的、構成、効果を異にするものであるにかかわらず、これを同一のものと認定した審決は、本願発明と第二、第三引用例との比較対照を誤つた違法がある。
1 第二引用例は「スチロールの重合に関する研究」と題する論文であり、スチロールの重合によつてスチロール重合体を製造する場合における重合防止剤および空気の影響について論じられている。すなわち、第二引用例はスチレンを積極的に重合させようとする場合を対象としており、スチレンの貯蔵中や輸送中の自然重合を対象とする本願発明とはその技術的課題を異にする。つぎに、本願発明と第二引用例との構成の本質的相違は、スチレンの維持温度にある。本願発明における貯蔵および輸送の場合の温度は常温(二〇度C)であることが要件とされる。これに対し、第二引用例においてはすべてスチレンを重合させるに適する温度である五〇度Cおよび八〇度Cで試験がなされている。その結果、第二引用例においては本願発明における常温時の酸素含有ガスと重合禁止剤との共存によるすぐれた作用効果については何ら触れるところがない。
2 第三引用例には、重合禁止剤としてP―ベンゾキノン・オレイン酸銅または二、四―ジニトロフエノールを使用し、八〇度Cおよび一〇〇度Cで空気の存在下にスチレンの安定化試験を実施した結果が示されているにすぎない。してみれば、第三引用例は本願発明とは全く異なる条件下における実験の結果を示すものにすぎず、本願発明とは明らかに相違するものである。